ぼくの願い事 2
ねこは「そばにいてもいいかい」と白いねこにたずねました。
白いねこは「ええ。」といいました。
(100万回生きたねこ)
「お詳しいんですね」
奇妙な感覚になぜか少し硬い声が出た。
薪さんは一瞬、『しまった』というような、すこし狼狽したような表情を見せて、すぐにいつもの冷静な顔に戻った。
「一般論だ」
そしてくるりと踵をかえして棚を物色し始めた。
この人はこういうとき、こうやって何事もなかったようにする癖があるよな……とその小さな後頭部を見つめているとなにやら1冊の絵本を手に取りくるりと俺の方に向き直った。
「黒と白の動物がいいなら、こっちのほうが姪には向いてるんじゃないか」
差し出した絵本には「しろいうさぎとくろいうさぎ」と書いてあった。
2匹のうさぎが描かれていて、しろいうさぎがタンポポを頭に飾ろうとしている。可愛らしい絵だ。
「……別に俺は白と黒がいいわけじゃ……」
「これもロングセラーの名作だぞ。1965年の刊行だ。もう100年近い。」
「はあ」
「作者はアメリカ人だが」
「はあ」
「女の子はこういうのが好きだろう」
こういうのって、どういうのだろう。うさぎか?タンポポか?ってか、薪さん女の子の好みを知ってるんですね?
「……薪さんっていろんな絵本にお詳しいんですね」
また薪さんは0.5秒くらい「しまった」顔をしてすこし怒ったように「飽くまで一般教養だ」と答えた。
そんな否定しなくても……と思っている俺の手の上に、ぽんとその絵本を乗せた。
「あまり夜遊びをするなよ。早く帰れた日くらいゆっくり休め」
そう言って、薪さんはまっすぐな背筋で去っていった。
2冊の絵本を抱えた俺を一度も振り返らずに。
「みんな死んでしまうんだぞ」
「哀しすぎないか」
薪さんの声が何回も蘇る。
彼のそんな……感情を表すようなセリフは、考えてみればものすごく珍しいことだ。
もともとあまりおしゃべりなほうじゃない(と思う)し、しゃべるときはほとんど仕事がらみだ。
怒鳴ったりもするけれど、それは彼の感情ではなく仕事上でのことに過ぎない。
それゆえそんなセリフはほとんど聞いたことがないような気がする。
俺はテイクアウトした弁当を夕食にして、何度も本屋での薪さんを反芻していた。
頭の隅にひっかかったあの横顔ーー
どこかで見た、でもその記憶がはっきりしないのだ。
夢の中の記憶のように、ぼんやりしているような、でも妙にくっきりしているような変な感覚だった。
いつも仕事で見ている表情とは全然違うーー
すこし柔らかくて寂しげで、よるべない雰囲気の横顔。
子供のようなーー
そういう意味では、あの夜の横顔と似ていた。
第九の飲み会で俺が大泣きした夜。何も言わずに側にいてくれたあのときの横顔。
でも違う。あの時じゃない。何かが違うのだ。
「あー、なんか気持ち悪い!」
こんなときは風呂だ!風呂にでも入ってさっぱりしよう。
久々に湯船に浸かって、髪をわしわし洗ったら少し気分が変わった。
髪を拭きながら、結局2冊とも買った絵本を手に取ってみる。
「100万回生きたねこ」はタイトルそのまま、100万回生きたねこが主人公だ。
100万回死んでも、生き返るねこ。
様々な飼い主の元で死に、みな猫の死を悲しむが、猫は誰のことも愛したことはなかった。
傲慢で、自己愛の強い、自分勝手なねこ。
彼は100万回生きたことが自慢で、周りもそんな彼にすり寄ってきた。
しかし彼自体は誰のことも好きではなかった。
ただひとり、出会った白い猫は彼が100万回生き返ったことに関心を示さなかった。
どんなに自慢しても、「そう」と答えるだけだった。
いつしか彼は白い猫を愛し、ずっと一緒にいたいと思うようになる。
そして人生(猫生?)を共にするが年老いて白い猫は死んでしまう。
100万回生きた猫は悲しみ、泣き続け、とうとう彼も白猫の隣で動かなくなりふたたび生き返ることはなかった。
そういうお話だった。
なんというか、不思議な気持ちになるお話だ。
哀しいけど幸せで、切ないけど温かい。
きっと猫は何度も生き返るより、しろい猫に出会ってその傍らで命果てたほうが、何万倍も幸せだったに違いない。
でも、これは確かに子供には早いかもしれない。
意味がわかるものなのかな?
子供は子供なりになにかを感じとったりするのだろうか?
名作とよばれて長く愛されるには、きっと様々な解釈ができて読み手に深いものを残すからなのだろう。
『自分の全てを変えてしまうような人と出会ったら。そしてその人を失ってしまったら』
薪さんの声が蘇る
『その時はもう生きてはいけない、ということなのかもしれない』
あのセリフは、一般論なんかじゃない。
きっと薪さん自身の心の声だ。
薪さんは『自分の全てを変えてしまうような人』と出会って、失ったことがあるのだ。
それはきっとーー
「鈴木さん……」

続く
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