もう一度だけ君に会えるのなら(4)
命が繰り返すならば
何度も君のもとへ
欲しいものなどもう何もない
君のほかに大切なものなど

薪は帰宅すると、鈴木と雪子と自分が写っている写真をしばらく眺めてから、まるで修行僧のように黙々と生活のノルマをこなした。
服を着替え、手を洗いうがいをし、簡単な調理をして食事をして、食器を洗い、風呂に入ってーー
けれどそこには何の意味もないような気がした。
いや、意味などなくてもいいのか。
あの事件が起きてから。
鈴木がいなくなってから、いろいろなことがわからなくなってしまった。
ふとすると、自分が生きているのか死んでいるのかさえ確証が持てなくなってしまう。
この今いる世界が夢なのか現実なのかさえ。
しかし立ち止まっている暇はない。
どんどん凶悪な事件は起こるし、このままむざむざ第九を無くすわけにはいかない。
いかない?
何故?
第九は……第九の全国展開は鈴木との夢だった。
そうだ。だから僕はーー
気がつくと洗面台に手をついてぼんやりと考え事をしていた自分に気がつく。
どれくらいそうしていたのかわからない。洗った髪が半分くらい乾いていた。
のろのろとドライヤーを出して髪を乾かす。
本当はすべてがどうでもいい気がした。
一体自分は何に突き動かされて生きているんだろう?
もうこの手の中には何もないはずなのに。
その夜、薪は暴力的なまでに強い眠気に襲われて、ベッドに入った。
午前中からあの暑さの中外を歩いたからだろうか?体が疲れていて泥のように重たい。
夏用のブランケットを身体に巻きつけて目を閉じると、すうっと布がかけられるように眠りが訪れた。
あの日以来、それはとても珍しいことだった。
このまま眠りの中に沈んでいられればいいのに。
いっそ、もうずっと。
かすかな意識でそう思って、薪はそのまま自分を手放した。
深くて暗い静かな闇が訪れた。
「薪」
真っ暗な中に、とても小さな声がする。
静かな水面に落ちる、一滴の水のような。
「薪」
何百回と聞いた聞き覚えのある声だ。
「薪」
とても心地いい柔らかい深みのある声。
「薪」
ハッキリと耳元でその声がして、薪は驚きのあまり飛び起きた。
「よう」
目の前には、自分が殺したはずの親友が、飄々とした顔で左手を上げて挨拶をしていた。
薪は急激に闇の中から浮き上がってきて混乱する意識のまま、その顔をまじまじと見つめる。
鈴木だ。
あの頃のままの。
「す……ずき?」
「久しぶり」
薪は3秒くらい思案した。そしてそのままブランケットを被って再びベッドに倒れこんだ。
「消えろ」
「ええっ!?」
「お前は鈴木じゃない。鈴木は死んだんだ。僕が殺したんだ。だからお前は鈴木じゃない。」
背中を向けたままキッパリと、冷たい口調で言い放つ。
「ひでぇなあ。久しぶりに会った親友への言葉がそれかよ。もうちょっとなんかあるだろ。鈴木、会いたかった!とかさ」
そのすこしふざけたような口調は2人きりのときの……くだけたときの鈴木の口調だった。
「お前は鈴木じゃない。」
自分の浅ましさに吐き気がする。
薪は唇を噛み締めた。
青木が鈴木の真意を教えてくれる前は自分を責め苛む鈴木の夢ばかりみて、鈴木が僕を護ろうとして死んだと知ったあとにはこれか?なんてーー
「お前は鈴木じゃない。僕の脳が作り出した幻影だ。」
なんて卑怯で浅ましいんだ。許してほしいなんて思わないと言いながら、こんな鈴木の夢をみるのか。
「薪」
「名前を呼ぶな」
「まーき」
「呼ぶな」
「つーよしくん」
枕に顔を埋めたまま、泣きそうになっている自分が嫌になって息をつめる。
自分のすぐ隣がぐっと沈む感覚が背中から伝わって来る。鈴木の幻影が座ったのだろう。
幻影のくせに、体重まであるらしい。なんて忌々しい。
「薪」
もう返事はしない。自分が産み出した幻影と会話するなんて不毛すぎる。
幻影の手が、そっと髪に触れた。そして生前彼が時々してくれたように、頭を撫でる。
その手の感触や体温までが全く同じだった。
飼い猫でも撫でるかのように規則的に手を動かしながら、鈴木はひとりでペラペラ喋り続けた。
「本当はもうちょっと早く、命日かお盆くらいに来ようかと思ってたんだけどさ。なんかあの変なヌイグルミ……チャッピーだっけ?あの事件で忙しそうだったしさ。結局お前が会いにきてくれたのも今日だったし。だから……」
薪はそれを無視し続ける。どんなにその幻影がリアルでもこれは鈴木じゃない。
これは僕の醜い願望だ。
髪の中で鈴木の手が止まる。
……手が小さく震えている。
……いや、違う。震えているのは、自分だ。
薪は自ら両肩を抱いてそれを止めようとするが、身体の震えは止まらなかった。
鈴木はそっと親指でこめかみを何度か撫で、指の甲で頬の感触を確かめるように触れてきた。
こんなふうに、触れられたことなどなかったはずだ。少なくとも記憶にはない。
愛おしむような、慈しむような手の動き。
「まき……」
鈴木はなにかを言いかけては口をつぐんでいるような気配がした。
その長身をゆっくり屈めて、小さく丸まっている薪の耳元に、唇を寄せた。
しばらくの後、小さくやっと聞き取れるほどの声で囁いた。
「薪……ごめんな。」
薪は再び弾けるように飛び起きた。
「ごめんな!?」
「え!?」
「なんでお前が謝るんだ!?」
「え」
「お前は殺されたんだ!僕に!お前の未来も、なにもかも、僕が奪ったんだ!そうだろう!?なのに、なんでお前が……」
喉が詰まる。言葉のかわりに胸が苦しくなり、目の辺りが熱くなってきた。
薪は鈴木の幻影を、その姿をあらためて見つめた。
さらりとした茶色の髪も、人懐っこい瞳も、男らしい輪郭も、がっしりした肩もすらりと伸びた腕も、鈴木そのものだった。
困った時の表情も、それでも温かい眼差しも。
2年経ってもこんなしっかりした幻影を見ることができるほど、自分の脳内には鈴木の情報がつまっているのだ。
薪は絶望的な気分になった。
自分は鈴木に、許してほしいばかりじゃなく謝ってほしいとさえ思っているのか?
そんはなずはない。
絶対にない。
「お前が……っ」
その後を言い淀んでいると、鈴木は薪の両腕を優しく掴んだ。
パジャマ越しに、鈴木の手の熱さが伝わってくる。
「薪。ごめん。俺はただ、お前を……」
鈴木がうつむく。その額に髪がかかってその瞳が隠れてしまう。
本当はずっと見つめていたかった、鈴木の瞳。
「護りたかっただけなんだ……」
鈴木は苦しそうに呟いて、そのまま謝るように頭を垂れていた。
護る?
それがなぜ、自分の脳を撃ってくれ、なんて結論になるんだ。
どうして貝沼の脳を一人で見ようとした?
どうして僕なんかを命を懸けてまで護ろうとした?
どうして……
鈴木
どうして?
どうして?
どうして?
鈴木に聞いてみたかった。たくさんの「どうして」を。
しかし、その疑問が薪の口に登ることはなかった。
代わりに瞳から涙が溢れてきた。
「すずき……」
「うん」
「す…ずき」
「うん。ごめん。薪。ひとりにして、ごめんな。」
「すずき」
「苦しい思いばかりさせて、ごめん。お前のせいじゃないんだ。俺が方法を間違えたんだ。本当にごめん。」
「す……」
「ごめんな」
ぱたぱたと溢れる涙がシーツに沁みていく。
もう、自分の意思では止められない。
鈴木は薪の腕を引っ張って体を引き寄せ抱きかかえる。ちょうど、あの時のように。
友人ならーー
ずっと一緒にいられる。
わかってる。大丈夫だ。とくりかえして、ずっと背中を撫でてくれたあの夜のように。
嘘つき。
鈴木は嘘つきだ。
友人なら、ずっと一緒にいてやれるってそういったのに。
もうどこにもいないじゃないか。
薪は泣きながら鈴木に、鈴木の幻影にすがりついた。
この際、もうどっちでもいい。自分が作り出した幻影だろうが、霊だろうが。いっそ悪魔だってかまわない。
「すず……」
「本当にごめん。」
「す……」
ごめん、ごめん、と繰り返す鈴木に、薪は同じくらい馬鹿みたいに鈴木の名前を繰り返した。
「薪。ずっと待ってるから。」
背中をさする大きな手。温かくて大きな手が、本当に好きだった。
「いそがなくていいから。たくさん幸せになって、たくさん笑って、うんざりするくらい生きて、それから来ればいいよ。ずっと待ってるから。」
薪は、子供のように泣く自分の泣き声をどこか他人事のように聞いていた。
ごめん。大丈夫だよ。
薪のせいじゃないんだ。
本当にごめんな。
泣き声にまじって、繰り返し繰り返し、鈴木の優しい声がする。
息苦しい嗚咽の中、薪はただ親友の名前を呼び続けた。
「鈴木」
「うん」
「鈴木」
「うん。ごめんな、薪」
「すずき……」
大好きだった、自分のすべてだった、親友の名前を。
続

何度も君のもとへ
欲しいものなどもう何もない
君のほかに大切なものなど

薪は帰宅すると、鈴木と雪子と自分が写っている写真をしばらく眺めてから、まるで修行僧のように黙々と生活のノルマをこなした。
服を着替え、手を洗いうがいをし、簡単な調理をして食事をして、食器を洗い、風呂に入ってーー
けれどそこには何の意味もないような気がした。
いや、意味などなくてもいいのか。
あの事件が起きてから。
鈴木がいなくなってから、いろいろなことがわからなくなってしまった。
ふとすると、自分が生きているのか死んでいるのかさえ確証が持てなくなってしまう。
この今いる世界が夢なのか現実なのかさえ。
しかし立ち止まっている暇はない。
どんどん凶悪な事件は起こるし、このままむざむざ第九を無くすわけにはいかない。
いかない?
何故?
第九は……第九の全国展開は鈴木との夢だった。
そうだ。だから僕はーー
気がつくと洗面台に手をついてぼんやりと考え事をしていた自分に気がつく。
どれくらいそうしていたのかわからない。洗った髪が半分くらい乾いていた。
のろのろとドライヤーを出して髪を乾かす。
本当はすべてがどうでもいい気がした。
一体自分は何に突き動かされて生きているんだろう?
もうこの手の中には何もないはずなのに。
その夜、薪は暴力的なまでに強い眠気に襲われて、ベッドに入った。
午前中からあの暑さの中外を歩いたからだろうか?体が疲れていて泥のように重たい。
夏用のブランケットを身体に巻きつけて目を閉じると、すうっと布がかけられるように眠りが訪れた。
あの日以来、それはとても珍しいことだった。
このまま眠りの中に沈んでいられればいいのに。
いっそ、もうずっと。
かすかな意識でそう思って、薪はそのまま自分を手放した。
深くて暗い静かな闇が訪れた。
「薪」
真っ暗な中に、とても小さな声がする。
静かな水面に落ちる、一滴の水のような。
「薪」
何百回と聞いた聞き覚えのある声だ。
「薪」
とても心地いい柔らかい深みのある声。
「薪」
ハッキリと耳元でその声がして、薪は驚きのあまり飛び起きた。
「よう」
目の前には、自分が殺したはずの親友が、飄々とした顔で左手を上げて挨拶をしていた。
薪は急激に闇の中から浮き上がってきて混乱する意識のまま、その顔をまじまじと見つめる。
鈴木だ。
あの頃のままの。
「す……ずき?」
「久しぶり」
薪は3秒くらい思案した。そしてそのままブランケットを被って再びベッドに倒れこんだ。
「消えろ」
「ええっ!?」
「お前は鈴木じゃない。鈴木は死んだんだ。僕が殺したんだ。だからお前は鈴木じゃない。」
背中を向けたままキッパリと、冷たい口調で言い放つ。
「ひでぇなあ。久しぶりに会った親友への言葉がそれかよ。もうちょっとなんかあるだろ。鈴木、会いたかった!とかさ」
そのすこしふざけたような口調は2人きりのときの……くだけたときの鈴木の口調だった。
「お前は鈴木じゃない。」
自分の浅ましさに吐き気がする。
薪は唇を噛み締めた。
青木が鈴木の真意を教えてくれる前は自分を責め苛む鈴木の夢ばかりみて、鈴木が僕を護ろうとして死んだと知ったあとにはこれか?なんてーー
「お前は鈴木じゃない。僕の脳が作り出した幻影だ。」
なんて卑怯で浅ましいんだ。許してほしいなんて思わないと言いながら、こんな鈴木の夢をみるのか。
「薪」
「名前を呼ぶな」
「まーき」
「呼ぶな」
「つーよしくん」
枕に顔を埋めたまま、泣きそうになっている自分が嫌になって息をつめる。
自分のすぐ隣がぐっと沈む感覚が背中から伝わって来る。鈴木の幻影が座ったのだろう。
幻影のくせに、体重まであるらしい。なんて忌々しい。
「薪」
もう返事はしない。自分が産み出した幻影と会話するなんて不毛すぎる。
幻影の手が、そっと髪に触れた。そして生前彼が時々してくれたように、頭を撫でる。
その手の感触や体温までが全く同じだった。
飼い猫でも撫でるかのように規則的に手を動かしながら、鈴木はひとりでペラペラ喋り続けた。
「本当はもうちょっと早く、命日かお盆くらいに来ようかと思ってたんだけどさ。なんかあの変なヌイグルミ……チャッピーだっけ?あの事件で忙しそうだったしさ。結局お前が会いにきてくれたのも今日だったし。だから……」
薪はそれを無視し続ける。どんなにその幻影がリアルでもこれは鈴木じゃない。
これは僕の醜い願望だ。
髪の中で鈴木の手が止まる。
……手が小さく震えている。
……いや、違う。震えているのは、自分だ。
薪は自ら両肩を抱いてそれを止めようとするが、身体の震えは止まらなかった。
鈴木はそっと親指でこめかみを何度か撫で、指の甲で頬の感触を確かめるように触れてきた。
こんなふうに、触れられたことなどなかったはずだ。少なくとも記憶にはない。
愛おしむような、慈しむような手の動き。
「まき……」
鈴木はなにかを言いかけては口をつぐんでいるような気配がした。
その長身をゆっくり屈めて、小さく丸まっている薪の耳元に、唇を寄せた。
しばらくの後、小さくやっと聞き取れるほどの声で囁いた。
「薪……ごめんな。」
薪は再び弾けるように飛び起きた。
「ごめんな!?」
「え!?」
「なんでお前が謝るんだ!?」
「え」
「お前は殺されたんだ!僕に!お前の未来も、なにもかも、僕が奪ったんだ!そうだろう!?なのに、なんでお前が……」
喉が詰まる。言葉のかわりに胸が苦しくなり、目の辺りが熱くなってきた。
薪は鈴木の幻影を、その姿をあらためて見つめた。
さらりとした茶色の髪も、人懐っこい瞳も、男らしい輪郭も、がっしりした肩もすらりと伸びた腕も、鈴木そのものだった。
困った時の表情も、それでも温かい眼差しも。
2年経ってもこんなしっかりした幻影を見ることができるほど、自分の脳内には鈴木の情報がつまっているのだ。
薪は絶望的な気分になった。
自分は鈴木に、許してほしいばかりじゃなく謝ってほしいとさえ思っているのか?
そんはなずはない。
絶対にない。
「お前が……っ」
その後を言い淀んでいると、鈴木は薪の両腕を優しく掴んだ。
パジャマ越しに、鈴木の手の熱さが伝わってくる。
「薪。ごめん。俺はただ、お前を……」
鈴木がうつむく。その額に髪がかかってその瞳が隠れてしまう。
本当はずっと見つめていたかった、鈴木の瞳。
「護りたかっただけなんだ……」
鈴木は苦しそうに呟いて、そのまま謝るように頭を垂れていた。
護る?
それがなぜ、自分の脳を撃ってくれ、なんて結論になるんだ。
どうして貝沼の脳を一人で見ようとした?
どうして僕なんかを命を懸けてまで護ろうとした?
どうして……
鈴木
どうして?
どうして?
どうして?
鈴木に聞いてみたかった。たくさんの「どうして」を。
しかし、その疑問が薪の口に登ることはなかった。
代わりに瞳から涙が溢れてきた。
「すずき……」
「うん」
「す…ずき」
「うん。ごめん。薪。ひとりにして、ごめんな。」
「すずき」
「苦しい思いばかりさせて、ごめん。お前のせいじゃないんだ。俺が方法を間違えたんだ。本当にごめん。」
「す……」
「ごめんな」
ぱたぱたと溢れる涙がシーツに沁みていく。
もう、自分の意思では止められない。
鈴木は薪の腕を引っ張って体を引き寄せ抱きかかえる。ちょうど、あの時のように。
友人ならーー
ずっと一緒にいられる。
わかってる。大丈夫だ。とくりかえして、ずっと背中を撫でてくれたあの夜のように。
嘘つき。
鈴木は嘘つきだ。
友人なら、ずっと一緒にいてやれるってそういったのに。
もうどこにもいないじゃないか。
薪は泣きながら鈴木に、鈴木の幻影にすがりついた。
この際、もうどっちでもいい。自分が作り出した幻影だろうが、霊だろうが。いっそ悪魔だってかまわない。
「すず……」
「本当にごめん。」
「す……」
ごめん、ごめん、と繰り返す鈴木に、薪は同じくらい馬鹿みたいに鈴木の名前を繰り返した。
「薪。ずっと待ってるから。」
背中をさする大きな手。温かくて大きな手が、本当に好きだった。
「いそがなくていいから。たくさん幸せになって、たくさん笑って、うんざりするくらい生きて、それから来ればいいよ。ずっと待ってるから。」
薪は、子供のように泣く自分の泣き声をどこか他人事のように聞いていた。
ごめん。大丈夫だよ。
薪のせいじゃないんだ。
本当にごめんな。
泣き声にまじって、繰り返し繰り返し、鈴木の優しい声がする。
息苦しい嗚咽の中、薪はただ親友の名前を呼び続けた。
「鈴木」
「うん」
「鈴木」
「うん。ごめんな、薪」
「すずき……」
大好きだった、自分のすべてだった、親友の名前を。
続

スポンサーサイト